オンキヨー世界点字作文コンクール ONKYO WORLD BRALLE ESSAY CONTEST


サポートの部 優秀賞 国内部門
「親子のタップ」
埼玉県 見澤 富子(61歳・女性)
「先生、お願いです。私の目を移植できませんか」
あれは十八年前。八七四グラムという未熟児で生まれた息子に視力がないとわかった時だった。私は半狂乱になって医師の肩を揺さぶった。それでも揺らぐことのない事実。息子は網膜症により視力もなければ光を感じることさえなかった。心を揺らす戸惑いや焦り。見えなくなったのは未来の方だったように思う。
それでも不利にはしたくない。そんな思いで五歳の時近所の子が通う水泳教室に連れて行った。しかし「障害児は受け入れていない」と門前払い。泣く泣くその場をあとにしたが諦めきれず他の教室を探した。障害児というだけで入会はおろか、一般開放さえ利用できない現実。断られるたび「お願いします」と泣きついた。その声は震え、唇さえも悔しさで震えた。
やっとの思いで利用許可をもらえたのは自宅から電車で二時間かかる水泳教室だった。息子は水に入るなり声をあげてはしゃいだ
「くれぐれも壁にぶつからないように気をつけて下さい」
コーチは語気を強めて言った。それもそのはず。視覚障害者にとって水中での最大の障害は壁。壁への衝突を回避させることが親の役目でもあった。
その後もレッスンを重ねるたび、十メートル、二〇メートルと記録を伸ばしていった息子。
「そろそろタッピングを入れましょう」
その日コーチが取り出したのはタッピングバーだった。これはゴール付近を知らせる合図棒である。コーチが五メートルラインで背中をトンと叩くと息子は壁の手前で止まった。
翌月の一般開放日。その日はコーチがおらず私が息子のタッピングをすることになった。そうは言っても初めてのタッピング。棒を持つ手は震え、うっすらと汗が滲む。いよいよ五メートルラインに差しかかった時だ。私は息子の背中をトンとタップした。しかし息子は減速することなくそのまま壁に突っ込んだ。
「うあん、うあん」
見れば親指の爪は割れ、水中に血が滲んでいた。その痛がり方は尋常でなかった。
「もしかしたら折れているのかもしれない」
その後救急搬送された息子。幸い大事には至らず、テーピングで済んだ。だけど私は息子を前に言葉がなかった。不甲斐なさや申し訳なさが胸を締めつけた。
「ごめんね…本当にごめん」
しかし息子は言った。
「だいじょうぶだよ。いつも、もっとぶつかってるから」
その笑顔を見るなり安堵し、なぜだろう、しばらく涙が止まらなかった。
その後も息子は水泳を続けた。練習を重ねるごとに記録はぐんぐん伸び、小学生になると大会にも出場した。一方目が見えないことによるケガも増えた。コースロープに指を突っ込むことは日常茶飯事。いつだって爪は割れているし、手には無数の傷がある。私は病院に連れて行くたび不安で押しつぶされそうになった。
それでも息子は辞めなかった。雨の日も涙の日も。競泳パンツは何枚擦り切れたかわからない。だけど穴のあいた水着を見せながら息子は言った。
「これ、俺の勲章だから!」
その穴から覗く未来は決して暗くなんかなかった。
気づけばこの十八年間私は目が見えないことへの負い目ばかり感じていた。人知れず涙を流し、天使のような寝顔に詫びることもあった。それでも息子はいつも前向きだった。目が見えないことを壁とするならばそれをバネにする強さがあった。そして気づけばサポートするはずの私が息子に支えられていた。目が見えないから何だよ。目が見えなくても夢は見れる。そう息子から教えられた。
高校最後の大会直前、息子は言った。
「お袋、頼みがある。最後のレース、俺のタッピングをして欲しい」
そして迎えた本番。私はタッピングバーを握りしめ、プールサイドに立った。ホイッスルと同時に突き進む息子。その気迫溢れる泳ぎに思わず目頭が熱くなる。そこには親としての負い目や不甲斐なさを超越した喜びが、確かに、あった。
まもなく五メートルライン。私は息子の背を押すようにタップした。ゴールした息子は満面の笑み。その笑顔を目に焼き付けておきたかったができなかった。視界は大粒の涙でひどく曇っていた。
「生まれてきてくれて」
そこまで言いかけて唾を飲んだ。その続きは目を見て言おうとこっそり思った。