オンキヨー世界点字作文コンクール ONKYO WORLD BRALLE ESSAY CONTEST


シニア・グループ ヨーロッパ地域 佳作
「点字の過去と現在」
ノルウェー トネ・マティエセン(46歳・女性)
2020年6月始めのよく晴れて暖かなある日、私は重い段ボール箱を持って立っている。
親しい友人の予期せぬ死後、私はいくつかの遺品の整理を手伝うことになった。その友人は、プライベートでも仕事を通しても、盲人や弱視の人たちのために長年尽力した人で、紙ベースであれデジタルであれ、点字の習得や利用の権利と機会促進のために情熱を持って尽くした人だった。
遺品の整理というのは、様々な意味で感情的になる作業だ。いくつもの思い出がよみがえってくるからだ。私は点字が読めるので、この方の遺品整理の大事な役割を担っている。
その段ボール箱をおろし、丁寧に箱を開ける。点字独特の匂いがただよう。子供の頃、読書できる喜びとともに感じた、懐かしい香りだ。
その箱から、まず一冊を取り出す。それは大きくて重い。かつての点字本がそうだった。
トールキンの「指輪物語」だ。なるほどいいチョイスだ。ざっとページをめくって、所々読んでみる。指で行を追っていく感覚。日の光が顔にあたり、しばしの間、時が止まる。
今では、こういった本は、カバー無しでホチキス留めされている。読んだら廃棄されてもいいように製本されるのだ。しかし、この当時は、本は長く使われるように製本されていた。時代の変化や発展を理解し支持しているとはいえ、私はどっしりした本を手に取ることが好きだった。特に、最近の本は、忙しい現代社会にあった素材で製本されているからだ。
さて、次の本、また新たな出会いだ。まず本の表紙を触る。明らかに古い本だ。縫って製本されていることからだけでも、歴史的な貴重さがわかる。長い間、読み継がれてきたに違いない。私は思わずにっこりして、本を開ける。ぱりっとした古い紙を触って、この本が1906年製だと知る。大量生産がされる前の、いろいろな工程を経て作られた本だ。この本が出来上がるまでには、多くの人の手が関わったのだろう。当時は、一点一点書かれていた。細かい完璧な作業だ。そして、私の前に、多くの読者がそれに触り、この本を読んだことだろう。
2020年の今この時、その多くの人の手に私が出会っている。コロナウイルスのせいで、今日すでに4回も、私は手に消毒剤をかけた。とは言え、この本の香りや、手の感触、そういったすべての思いが心をよぎり、様々な感情が沸きあがってくる。この貴重な本への思いと純粋な喜びがここにある。これから先も、この本が新たな読書の体験をもたらしてくれるよう願う。これまでこのように大切にされてきたことへの喜びとともに、何世代もの人たちがこの本を謙虚に読み継いできたことを思うと、私の指は震えた。
ひとつひとつの文字が言葉となり、私に驚きの感情をもたらし続ける。私は思わず微笑む。ゆっくりとページをめくりながら、私は感謝の気持ちでいっぱいになる。新たな読書の体験を与えるために、多くの時間をかけて、点字に変換する作業をしてくれた人たちの努力への深い感謝の気持ちだ。
丁寧に点字に変換されたその本を、2020年に、一人の女性が、このように読むことになるとは、彼らもまさか思わなかっただろう。
114年ほど前に、彼らによって一生懸命に点が打たれた、そのページを、私の指でこうして触ることができているのは、本当に素晴らしく、喜ばしいことだ。当時、このように点字から情報を得ることは、とても珍しいことだった。今日では、読んだり情報を集めたりすることは当たり前になっているが、単に当たり前だと思うべきではない。点字はもはや機能的でなく、価値もないと思っている人が多いからだ。幸運にも、今でも点字に投資する人もいて、読書することができている。デジタルで読むことが多くなっているとは言え、点字は今でも必要なのだ。
私は、この本を所有した人や読んだ人のことを思う。どういう人たちだったのだろうか?どんな暮らしぶりだったのだろう?点字をどのように使っていたのだろう?どんなきっかけで、この本に関わったのだろう?この本を次の人に渡すことで、この本の新たな読者に、点字の重要さや大切さを伝えてきた。そういう人の一人として、私もこの本を次の世代に渡していくことができるのだろうか?もちろん、ぜひそうしたいと思う。
私は、ルイ・ブライユの時代に戻って、ご本人に、点字という画期的な偉業が、どれほど私と数多くの盲人や弱視の人たちの役に立ったかを、直接お話できたらいいのに、と思う。
私は、点字のしくみを解き明かした時のことを、今でも鮮明に覚えている。言葉が「自分のもの」となった瞬間の感情、そしてその文字を理解し、それを組み合わせて文面を作り出せるとわかった時の感動を。我々は、点字の利用者として、新たに視覚を失った人たちが、点字のおかげで経験できる自由と自立の大切さを得られるよう、闘いをやめてはいけないのだ。人工の合成音であれ誰かの声であれ、読んでもらっての理解は、自分で言葉を習得し自分の触感を通して知識を得ることとは比べものにならない。
こうして夏のそよ風を顔に感じながら座って、本を足に置いてその本の上に指を走らせるという穏やかなひとときにまさることは、ほぼないだろう。一瞬指を止め、笑みをうかべて、もう一度その文章を読み返す。自分で読むことによって、言葉の理解が深まり、本の中のレイアウトもすぐに理解できてよいというのが、私の考えだ。
今日では、様々な素晴らしいデジタル技術の機器があるが、自分の手で点字に触れて読む体験は、依然として大きな力を持つ。その自由さを、ぜひ他の方々にも経験してほしいと思う。私の夢は、今日私が手にとったのと同じこの古い本を、2106年に、だれかが同じように手に取って読み、本を味わってくれることだ。幾世代にも渡って視覚に障害のある人たちが分かち合ってきた喜びを感じてほしい。そして視覚障害者と健常者が力を合わせて情報を伝えてきたという事実を喜び、「アイラブ点字!」と同世代の人たちに言い伝えていってほしい、と願っている。