オンキヨー世界点字作文コンクール ONKYO WORLD BRALLE ESSAY CONTEST

シニア・グループ ヨーロッパ地域 優秀賞 「人生のコースを変えた瞬間」
ルーマニア  ヴィオレル・セルバン(69歳・男性)

 私はルーマニアの西部、トランシルヴァニアのカルパティア山脈近くで生まれました。ここは、ローマ時代以降ずっと金の採掘が行われている場所です。私の父は金鉱山で働いていました。私は10歳になるまで、ささやかですが楽しい日々を過ごしていました。それは、1960年12月14日のことでした。黄色く枯れた草を覆い尽くすほどの雪は、まだ積もっていませんでした。学校から帰宅して食事をすませ、いつものように近くの丘に羊を数頭つれて行きました。丘の麓を通り過ぎ、石がたくさん積み上がっている場所にきました。ここは、第二次世界大戦中、ドイツが金鉱石の輸送用に鉄道建築を計画していたところです。

 私は、石を1つ転がしてみました。 ちょうど石が転がった先に、赤く錆びた箱が見えたので拾って開けてみました。中には、金属でできた卵形の物体があり、その側面にはリングがついていました。しばらくじっと見つめていました。気づくと羊が遠くに行っていたので、その物体をつかんでポケットの中に入れ、急いで羊の後を追いました。丘の上につくと、そこからは村や周囲の丘が一望できます。雨に削られて椅子のような形になった白い石の上に座りました。そこからの眺めは、特に春は、たとえようのない美しさです。遠くに山々が連なり、その背景にはさらに遠くにある山の白い頂が見えます。でも12月は鬱々としていて、遠くのカルパティア山脈は厚く白いもやに霞んで見えません。

 私は怖くなって、羊を連れて来た道を戻ろうと思いました。そのとき、座っていた椅子の形の石のそばの黄色い草の上に、さっき見つけた赤い箱の中にあったものと同じようなものがあるのに気づきました。ポケットを確認すると空っぽです。ポケットから落ちて草の上に転がっていたのです。その物体のことはすっかり忘れていました。草の中から拾い上げて、またポケットに入れました。家には祖母しかいませんでした。父はまだ鉱山から帰宅しておらず、母は川まで洗濯に行っていたのです。

 私は、数日前に森の脇で見つけた泉から、水を引く樋をつくろうと、刀で木を削り始めました。私は祖父とは仲良しで、こうした手仕事は祖父に教えてもらいました。樋をつくっているときに、上着のポケットからあの物体を取り出しました。作業の手を止めて、じっくりと見てみました。不思議な物体です。ただ、じっと見つめました。何だろうと思ったり、ちょっと分解してどうなっているかみてみようと思ったりはしませんでした。普段の私ならそうではありません。何か新しい物を見つけると、とことん知りたくなる性格だったからです。

 でもそのときは、できればその物体のことは忘れたい、それとは手を切りたいと思っているのに、誰かがわざわざ私の前に置いたような気がしました。樋を横に置いて、その物体を石の上に置いてみました。少し離れて、別の石でその物体を叩いてみました。物体はただそのまま転がり落ちました。しばらくその物体を見ていましたが、嫌悪感がわいてきたので、拾い上げて今度は壁の端に置きました。突然、無性にその物体を何かで叩きたいという衝動に駆られました。まだ手に刀を握っていたので、片膝をつき、刀で石を叩きました。2度目に叩いた時、突然、火花が飛んで爆発しました。

 後からわかったのですが、それは手榴弾でした。いずれにしても時すでに遅し、です。私は積み上げられた木の上まで吹き飛ばされ、突然、暗闇に包まれました。しばらくじっと横になっていました。どれくらいそうしていたかはわかりません。爆発音に驚いた家族や近所の人たちがやってきて、私を見つけました。私は意識があり、祖父に向かって「おじいちゃん、もうおじいちゃんの顔を見ることができなくなった!」と言ったことを覚えています。まさに、その言葉通りでした。以来、私は視力を失ったままです。

 数ヶ月入院した後、村に戻りました。視力を失った以外、身体は完全に回復しました。クラスの友達も私のことを覚えていてくれました。すぐに遊びが始まりました。トランプでだまされたら負け、という遊びです。でも、私は札が見えないので、友達に聞くしかありません。なんとかしようと思い、11枚の札に場所を変えて穴をあけました。これで友達とトランプができるようになりました。

 その翌年、両親が教育省に依頼してくれて、私はトゥルグ・フルモスにある盲学校に行くことになりました。盲学校では、上から下、左から右へと、紙に穴をあけて文字を書く方法を学びました。また、指で点字を読む方法も学びました。生まれ故郷の村から借りてきた墨字の本を読むことができないのは、とてもつらいことでした。でも、すぐに点字を読むことができるようになり、私がトランプに穴を開けた時も、友達は私のことを馬鹿にしたりはしなかったことを思い出しました。ルイ・ブライユも同じような経験をしなかったのだろうかと思いました。でも、そんなことはないでしょう。私は小さな村に住んでいましたが、ルイ・ブライユは、パリの王立盲学校で同じ視覚障害を持つ友人達と暮らしていたのですから。